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  • 2009.11.03 Tuesday
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特集企画「ひと」第一回公開!

やっと「ひと」の第一回をアップロードできました。
最初にご登場いただいたのは、八ヶ岳高原の大泉町在住の洋画家・植月躋氏です。
植月氏は、仕事柄日本全国に足を運び、著名な観光地をたくさん巡ってこられた方。
その中で、この八ヶ岳高原との出会いは衝撃的だったそうで、北に八ヶ岳、南に
富士山、東に奥秩父連山、西に南アルプスという日本を代表する名山が360度の
大パノラマで展開するその雄大さに惹かれたそうです。

氏の描かれる風景画は、その八ヶ岳の雄大な勇姿ばかりではなく、山野草を前景に
した田園風景や、雪の林の小径など、繊細な風景画も数多くあります。
そのいずれも、奇をてらったり、画界の流行を追いかけたりすることなく、
あくまで、ご自身が、高原の風景の中に立ち、肌で感じる大気と風景のもつ雰囲気を
自然体で描かれます。

八ヶ岳高原の際だった高原景観を愛する繊細な感性の持ち主には、強い印象を与えるに
違いありません。

話は、八ヶ岳高原との交流、八ヶ岳高原における人との交流、そして八ヶ岳高原での
生活者としての暮らしと思いなど多岐にわたり、植月氏は83歳というご高齢ですが、
饒舌に率直な思いを語ってくださいました。

もちろん、植月氏の風景への愛着は、山あっての観光・高原あっての観光・
新鮮な空気と水と緑あっての観光をポリシーとするわがNPO法人 八ヶ岳南麓観光
ドットコムの理念・主旨とも合致しております。

特集企画「ひと」の第一回にふさわしい方にご登場願って、充実したお話もして
いただけたと自負しております。・・どうぞ、Blogをご覧くださいませ。
http://yatsu-hito.jugem.jp/
です。


地球温暖化問題に於ける「思考の陥穽」

 地球温暖化問題に於いても、昨日書いた「思考の陥穽」が認められる。中国やインドなど近年急速に近代化・現代化が進んできた国が、西側先進諸国や日本などで取り決めた対応策に猛反発している。その言い分は、要するに、「今までさんざん地球資源を使い放題使ってきたくせに、今になって他の国がそれに続くのはいけないと言って規制をかけるのは<不公平>だ」というものである。
 
 一見尤もなこの主張の思考に、私は、「思考の陥穽」をみるのである。
 たしかに、国家間の問題として考えれば、中国やインドなどの言い分は正当だろう。だが、ここでも最優先で考えるべきは、中国やインドの工業化・都市化政策によって地球温暖化現象にいかほどの悪影響をもたらすか、という点だ。現に看過し得ない悪影響がもたらされるとしたら、やはり、中国やインドも、地球温暖化防止対策に協力すべきだろう。

 尤も、西側先進諸国や日本が、己の近代化・現代化の過程で、たとえば地球温暖化現象と車の排気ガスや工場の煙の相関関係について、こんにちの危機的状況を予測し得たのに自国の発展至上主義でCO2などを排出し続けたという、いわば「確信犯」であったのなら、中国やインドのCO2排出量を過去の先進国並に認め、その分を含めて、西側先進諸国や日本が規制量を義務づけられるべきであろうと思う。
 が、さすがに、地球自身の自浄能力についてそこまでの予測は不可能だったのではないか。原油の生産や車の生産という近代化・現代化の推進役となってきたものが、実は、自分で自分の首を絞める如き事態を引き起こすことになるという事態は、それこそ「想定外」の事だったと言えるのではないか。

 ただ、よく政治の世界では「結果責任」という言葉が用いられる。この地球温暖化の問題にもその論理は適用すべきかもしれない。その意味で、中国やインドに対する規制量は、西側先進諸国や日本よりは優遇されても当然と言えるだろう。
 だが、過去の先進諸国がそうであったと全く同様に、というわけにはいくまい。地球が悲鳴をあげている今、やはり、それ相応の規制を求められても仕方ないと思われる。
 国家間の問題に於ける<公平さ>も大切な観点だが、それ以上に、最早、いずれの国も、「地球の自然環境」の<有限性>という観点から自国の政策を決定していかなければならない時代に立ち至っていることを承認すべきだ、と私は考えるのである。

土地問題に於ける思考の陥穽

 八ヶ岳南麓の高原は本当に素晴らしい。正直これだけの雄大かつ繊細な高原景観と新鮮な空気・水・緑という自然環境をもつ地域は、日本広しと言えども稀ではないかと、私は思っている。世界遺産にしようと声があがるのも、決して大逸れた話ではないだろう。
 が、その素晴らしい自然環境と高原景観は、いま、殊に別荘地開発によって、厳しい事態に立ち至っている。
 私は、八ヶ岳高原に魅せられ、東京から移住した経験者として、こんにちもこの地に魅せられ別荘を求める人に対しては同じ仲間のような親近感を覚えるものである。エールを送りたい気持ちもある。
 だが、一方で、世界遺産にもと願う意識は、この八ヶ岳高原の開発は、別荘であれ何であれ、もう飽和状態に近づいているのではないかと、考えているのもまた事実だ。

 で、個人的には、<森の中の小さな家>といった風情を担保するには、一区画が2千平米(約666坪)以上、必要であると実感しているのである。一区画がこれほどの面積であれば、分譲地全体としての自然環境・高原景観は担保されるように感じている。もちろん、これは、さらに一分譲地の最大面積の制限や緑地帯を設けるなど他の条件を満たした上での話である。
 が、これは私個人の願望であり、推論であって、これには、大気汚染や汚水や動植物の生態系の破壊といった観点、さらには竜巻や山津波など風水害といった自然災害の観点からの、専門家による学術的な調査やシミュレーション等が必要であろう。いったい、八ヶ岳高原の自然環境と高原景観は、どこまでそれらに耐えられるのであろうか。

 とは言え、現状の500平米(約160坪強)といった基準では少なくとも「高原景観」は殆ど崩壊するであろうことは専門家によらずとも断言できると思う。叙情溢れる小説や詩などたくさんの作品を残し八ヶ岳高原を愛してやまなかった四季派の堀辰雄や立原道造といった作家や詩人が生きていたら絶望するであろうほどに「高原が滅びる」ことは間違いないと思われる。
 
 おそらく既に別荘・別荘地を所有していたり、移住してきた人たちもまた、現状の500平米(約160坪強)では、如何せん、「高原景観」を担保するには至らず、また「自然環境」の面でも不安を感じているのではないだろうか。

 ここまで事を考え進めるとき、思考や意識感情の上で、一つ大きな矛盾に突き当たるのである。
 それは、自ら必要条件を満たしていない者が、他者にそれを要求するのは、公平さに欠けるのではないか、単なるエゴではないか、という問題である。
 
 この思いが、自然保護を訴える人たちの間でさえ、自然環境と高原景観を守るために最低限必要と思われる条件を明確に強く主張することに躊躇いを生じせしめているように思われる。−−が、実は、私はここに、思考の陥穽をみるのである。

 たしかに、現所有者とこれから所有しようとしている人という両者を対比して考えれば、現所有者の上記の判断なり要望なりは、身勝手とも言えよう。自分自身は100坪しか購入・所有していないのに、他者には200坪以上さらには333坪(千平米)以上の購入・所有を求めるのはあまりにも身勝手に過ぎると言われても仕方あるまい。

 だが、事は、上記にも書いたが、新鮮な空気と水と緑という「自然環境」の保全という観点、そして高原の風情を漂わせた「高原景観」の保護と育成という観点、さらには<災害予防>という観点から問題を捉える必要もあるのではないだろうか。
 実際、AさんとBさんの間に於いて公平であるかとの観点も大事だが、こんにちの開発の実態をみるとき、これから土地を所有しようとするBさん自身の土地所有の在り方が、高原全体の土地利用に於いて、自然環境と高原景観の保護、そして災害予防といった観点から望ましいか否か問われるのは致し方ないと、私は考える。
 いままでは許されていた行為が、ある時点を契機として許容されなくなるというのは、喫煙の問題にもみられるとおりであり、いわば<遅れてきた者の不運>と言ったらいいだろうか。
 その人たちには気の毒だとは思うが、「地球温暖化」というこんにちの時代状況の中で求められる環境保護と災害予防の基準は大きく変化してしまったのであり、それは、既得権益者と非既得権益者との間に於ける<公平性>の問題で判断すべき事柄ではなくなってしまったのである。
 <エコ時代>のこんにちに於いては、やはり、自ずから客観的な基準というものが定かになってくるであろうし、それを土地利用、土地売却・購入の指針にしなければならないと、私は考えるのである。
 その意味で、たとえ現在100坪の土地しか所有していない人も、エコ時代に即した土地利用の在り方について率直にもの申すべきではないかと私は思う。自ら体験し、痛感したからこそ本来あるべき姿について、明確に語るべきではないのか。

 とにかく大切なのは、もうこれ以上、自然を痛めつけないことであり、景観を壊さないことである。
 幸い、未だ八ヶ岳高原は、他の観光地に比して、自然が豊かであり、景観の美しさを誇れるギリギリのところにあるが、それを今の子供達の世代に、さらに後世の人たちに伝えていく責務が私たちには存してあると私は考えるのである。それこそが最も優先されるべき思考のスタンスではないだろうか。
 その意味でここは「思考の陥穽」にはまって沈黙している場合では決してない、と私は思わざるを得ないのである。

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